Chocolate*4




2月14日が課題の提出日だった。
つまり、忙しすぎて、その日付が示すイベントのことは綺麗さっぱり忘れていた。
正午が提出期限だったので、五分前に駆けこんで、レポート用紙の束をBOXに突っ込んでから、俺はようやくまともに呼吸をすることができた。キャンパスを歩きながら、思い切り伸びをする。
昼飯なににしようかなあ、どうせまずいしなあ、家で食うかなあ。
そんなことを考えていたら、胸元で電話が鳴った。取り出す。

「はい」

近頃のスマートフォンは、ボタンすら押さなくて良くなったのが便利というか、人の退化をまねくようで心配にすらなる。

『もしもし。コウくん?』
「え。あれ、アオ?」

予期せぬ声に、俺はきょとんと立ち止った。
途端、どかんと音をたてて背中に誰かがぶつかってきた。
Sorry,と慌てて振り向きながらあやまると、相手は女の子だった。ラテン系のすっきりした鼻をして、手にハート柄の紙袋を持っている。

『どうしたの? 大丈夫?』
「あぁ……うん。大丈夫だ。課題が終わったばっかりだから、ぼーっとしちまって」

俺は電話の向こうの声にこたえた。
実際、ぼーっとしていた。
ぶつかったラテン系の女の子が、ごめんねと呟いて去って行く。
その手に下げられた紙袋には、St.Valentine’s dayと書いてあった。

『そっか。ごめんね、疲れてるときに』
「いや、いい。お前の声はきれいだからさ」

言ってから、なんか恥ずかしい台詞だな、と思った。
じわじわ体が熱くなってくる。
このままだとまたぶつかりそうなので、足を向ける先を中庭に変えた。

「それより、どうした?」
『ん。どうもしないけど、今日、バレンタインだから』

電話の向こうの声が言った。
明るくて、澄んで、俺の大好きな笑顔のソプラノが。
歌うみたいに、朗らかに、俺を呼ぶ。

『コウ、元気かなあって。そう想って』

チョコレート、送ったよと。
照れくさそうに言う彼女が、たまらなく愛しく思えた。










時は2月14日である。
友人が背中のうしろで電話をしている間に、かなでもケーキを焼きはじめた。
チョコレートの濃いガトー・ショコラ。
今日、出張から帰ってくる恋人が、できあがったこれを見てどのような表情を浮かべるかは想像に易い。
だからこそ、作る側のかなでとしても、これは大変楽しい創作になった。
なにしろ誠は甘いものが大好きで、わけてもチョコに眼がないと来た。付き合いはじめて最初の、去年のバレンタインに、せがまれてチョコレート・ムースを作ったら、誠は飛び跳ねんばかりの勢いで狂喜したし、それでなくとも、普段からかなでに何か作って、なにか作ってと頼んで来る。
かなではそのたび面倒至極な顔をしていたが、内実は、誠がおおげさな程喜んで、実にじつにうまそうに食べてくれるので、まんざらでもないのであった。

「もしもし、コウくん?」

背中の後ろのあおいの声がはずんだ。
どうやら、電話がロンドンに繋がったらしい。
控え目な彼女は、忙しい彼氏に遠慮して、今日のようにきっかけがないと滅多に自分からは電話しないらしい。
だとしたら、やっぱりまんざらでもないわね、とかなでは思い、メレンゲを泡立てた。

悪くない。好きな人がいるのって。その人のために何かするのって。
楽じゃないけど、報われる。

ふいに、台所の端に置いておいた携帯がふるえた。
眼で確認すると、誠からのメールを着信している。
かなではメレンゲをきっちり泡立て、チョコレートと混ぜ合わせてケーキ生地に仕立て上げ、さらにはそれをケーキ型に流し込んでオーブンに入れる、という一連の作業を完了してから、ようやく携帯電話に手を伸ばした。

>音速で仕事終わらせたから、早めに帰れるぞ! 
かなでさん、俺、チョコレートケーキ希望です。

「……バーカ」

ぷっ、と噴き出してしまいながら、かなでは思わず呟いた。
ほんと馬鹿だなあと思う。そんなに急いで帰ってきて、事故でも起こしたらどうするというのだろう。第一、出張の代休として、明日から連休を取っているのだ。

>急ぐ必要なんてないよ。大丈夫、ちゃんとケーキ焼いて待ってます。

あなたのためになら、いつでも何でも作ります。
それにずっと待っているよ。
言わないけどね。

>気をつけて帰って来るんだぞ、バカ誠!

あたしはいつも、あなたをちゃんと待っています。
かなでは思いながら、メールを送った。
そしてまたすぐに、台所へと戻っていった。

素直な気持ちはいつもこっそり。
口にはせずに、胸の中。










「着いた!!」

とにかく家へ、と気の逸っている笹井誠さんが、東京駅に到着したのは夕方5時過ぎのことであった。
つい数時間前までは仕事をこなしていたので、無論いまも格好はスーツにコート、両手には会社と知人への北陸みやげがどっさりである。はっきり言ってたいへん重い。
ふらふらと駅の雑踏を歩いて行く誠の眼に、ピンクや赤のバレンタイン、という文字がちらちら飛びこんで来る。
思わず口角が、上がった。

>気をつけて帰ってくるんだぞ、バカ誠!

誠の恋人は、ひたすらクールで醒めている。
甘えどころか、笑うことすら珍しい、だけれども決して感情の乏しいわけではないという面白いオンナノコだ。

かなでのお菓子、うまいんだよなあ。
意外とあいつ、手先が器用なんだよな。

今日はバレンタインなので、ケーキを作ってくれとお願いしてあった。とはいえ彼女の事なので、作ってくれていない可能性もあったので、午後に一度メールを送ってみたところ、ちゃんと作っているとの回答が得られた。
くわえて、先ほどの、ちょっとだけ可愛らしい心配のメール。

気をつけて、などと、実際のかなでは死んでも言わない。
恥ずかしい事を自分に許せない類の女の子だからだ。
その彼女が、あんなメールを送ってくれたとくれば、そりゃー彼氏としては嬉しいに決まっているさ。
嬉しすぎて、にやけてしまうほどさ!!

「って、うわー!」

阿呆な誠は、妄想にふけっていたせいで、盛大に両手の荷物をひっくりかえした。北陸みやげの笹寿司やら金つばやらお茶菓子やらが東京駅の構内を転がって行く。

「ああ! 待て待て、社長のお茶受けになる予定のお前!!」

誠くんは叫びながら北陸みやげを回収していったが、いかんせん量が多かった。
京葉線方面に走って行ったと思ったら、今度は山手線方面に走らなければいけない。
それを終えれば今度は新幹線方面、と言った調子で、てんやわんやしてしまった誠を、ふいに救ってくれた御仁がいた。

黒いコート姿が眼の前に膝を折る。
散らばったみやげものを手早く集めて、これまた落ちていた紙袋から埃をはらうと、そのなかに綺麗に戻して入れてくれた。

「どうぞ」

低い、落ち着いた声が耳朶をうつ。
誠はしばし、その若者を──見つめた。

「ありが……とう」

明らかに誠より年下の、その青年は、とても端整な人物だった。
容貌が、という意味ではない。
否、確かに彼は容貌が秀逸だった。
切れ長の眼に高い鼻梁、知的な額をして、全身がすっと、武人のように誇り高い輪郭で保たれていた。

「いいえ。お役に立てたなら、良かった」

極めつけには、立ち上がった身長までが高かった。
誠はふたたび見惚れた。
なんというか──容貌だけでなくて、立ち居振る舞いも、表情も──すべてが研ぎ澄まされた剣のような、若者だと思った。

「本当に、ありがとう」

二度目の礼を言うと、彼は笑んだ。
その笑顔に、誠が何か言おうと思った時、ふいに、雑踏から浮き上がってきた声が、青年の眼の色を変えさせた。

「──カイ!」

華やかな、咲くような声だった。
青年がぱっと声の方へ顔を向けた。
とたん、満面の笑顔を浮かべた。

「緋乃!」

 








「お帰りなさい!」

もはや界は、誠のことなど忘れ去っていた。
とろけるような、真実あまい顔をして、自分目がけてまろぶように駆けてきた女性を腕の中に搔き抱く。
ほんとうに愛おしくて。至上の喜びを、噛みしめるような心地で。
また、笑った。

「ああ、ひの。ただいま。良かった、元気だったか?」

花の、香りが、身体じゅうを駆けめぐる。
この温もりを求めていた。
離れていても、忘れ得ぬもの、決して己から失えない唯一のもの。

女性は──緋乃は、界の背にぎゅっとしがみついてから、それから笑った。

「勿論、元気よ! ああ、うれしい、久しぶりすぎて、あなたの体温がなつかしい。カイ、界、あなたはどうなの? 元気なの? なんだか少し、痩せたような気がするわ」

界の肩ほどの位置で、緋乃は表情豊かな大きな瞳をくるくると動かしてそう唇を動かした。カイはまたほほ笑んでしまう。
彼女の、この知性に富む眼が、唇が、言葉が好きだった。
遠い夜を超えて、何度でも、想像したこの姿かたち。

「元気だよ。でも、緋乃に会えると、やっぱりそれだけで何もかもが鮮やかになる。」

白い頬に手を寄せて言うと、緋乃もまた、じっと界を見つめて、それからほほ笑んだ。
手に手が、重ねられる。

「お誕生日、おめでとう。カイ」
「……ありがとう」

そして界は、最愛の恋人に、口づけの雨を降らせた。















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時々夢で、緋乃が界にむかって駆けていく、というシーンを繰り返し見ます。
その時の彼女の、けなげで、愛らしいこと。カイが彼女だけを愛するのが、よくわかります。
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