オドネルの弓(1/3)
オドネルの弓



 ──人ガ来ルヨ。起キナヨ。

 懐かしい声が、眠りを覚ます。
 睫毛を震わせながら瞼を開く。瞳に映ったのは、初めて目覚めたと き光のように飛び込んできた面影ではなく、金銀の星々が散りばめら れた青い天井と、水晶のごとき壁と柱に囲まれた室──見慣れた光 景だった。
 淡い光を放つ石の寝台の上で体を捩り、横に向ける。アーチ型をし た通路から、ほの暗い空間に生い茂る緑が垣間見えた。
 隣室は狭いながらも、温室の体をなしていた。植物が葉を繁らせ、 中央には八角形の泉の水盤が口を開けている。場所柄を考えれ ば、あり得ない光景だった。天井はやはり青いドームを形成し、金銀 の星々で飾られている。ここにある室はすべてそうだ。
(なぜ、星なのだろう)
 ぼんやりとした頭で考える。幾度となく上った疑問。答えなどわかる はずもない。
 なぜ、世界はこんな姿をしているのか。
 なぜ、自分はここにいるのか。
 そういった問いと同じだ。

 ──マダ、寝テルノ?

 再び、声がした。耳ではなく、頭の中に直接響いてくる。

 ──弓ヲ引キニ、誰カ来タンダヨ。

 久しぶりに聞く、懐かしい声に追い立てられるように、のろのろと体 を起こした。
 目覚めはいつも不思議な気分だった。夢など見たこともない。眠る 前とは深い断絶があるはずなのに、どうしてこうも見るもの、聞くも の、すべてが同じなのだろう。
 あのひとも、こんな想いを抱くのだろうか。それとも、思いもよらない 世界の有り様に嘆き、憤るのだろうか。
 何かが変わっただろうか。
 何も、変わっていないだろうか。

 ──ハヤク。ハヤク。

 声がせきたてる。
 吐息をつくと、髪をかきあげ、しどけなく体を起こした。

 ──ソラ、モウスグヤッテクルヨ。

 足を揃え、床におろした。
 風の、音が聞こえる……。







(空が、近い)
  万年雪を戴いた荒々しい稜線の連なりが、紺青の空を切り取って いた。
  呼吸をする度に薄い、冷やかに張り詰めた空気が肺を切り裂く。肩 で息をし半ば朦朧としながら、男は杖に寄り掛かるようにして、荒涼と した山の頂を歩いていた。
 ボロと毛皮を纏い、日に焼けた皮膚は埃にまみれている。唇はひ び割れ、もとは褐色をしていただろう髪は乱れ、埃によるものだけで なく白茶けていた。まだ筋肉の張りの感じられる体だったが、ここへ 至るまでに受けた過酷な試練によって、その姿は朽ち木のような有り 様だった。
(ここが、神々の座か……)
 なんの感慨もなく男は心の中で呟いた。
  大陸の中央に位置するイルシャン山脈。人々が世界の屋根、天上 に一番近い場所、神々の棲まう座と仰ぎ見る山系である。
 草木の一本もない、ましてや立ち入る者とてない神々の領域。生き 物といえば、ここへ来る途中大きな鷲を一羽見かけたきりだ。
 この、一番高い山の頂に岩屋があり、そこに、オドネルの弓がある と言われていた。不可能を可能とする、知恵とも武器ともなる魔法の 弓。眠れる神の残した、希望が……。
 それは神話、単なる伝説にすぎないと言う者もあれば、実話と信じ る者もいる。
 男は信じてはいなかった。ほんの数カ月前までは。いまは信じたか った。だから、ここにいるのだ。そのために幾重もの険しい山々を越 え、ここまでやってきたのだから。
 男の脳裏に、様々な光景が閃いては、消え去った。
 土煙。倒れる人の顔、顔、顔……。それを蹴散らす騎馬。悲鳴と怒 号。焼け落ち、破壊つくされた家々。エィンの、碧い首飾り……。そし て不敵な笑みを湛えた、男の────
 体が震え、心臓が炙られたように踊った。
(ザドラーン……ライウの外道どもが)
  固く目を瞑り、杖を握る手に力を込める。
(必ず……手に入れてみせる)
 自らに言い聞かせ、手足の感覚もない疲弊した体を鞭打ち尾根伝 いに神々の領域を進む男の霞む目に、建造物と思しきものが映し出 された。岩肌に直接刻まれた壮麗な二本の柱。その間に黒い矩形の 入口がぽっかりと口を開けている。
「おお──」
 岩屋は……あったのだ。
 男の顔が喜びに崩れた。乾いた唇を呆然と開け、薄汚れた皮膚に 埋もれた瞳を輝かせる。
(ここに……オドネルの弓が──)
 魔弓を求め、山の頂を目指す者はいつの世にも少からず存在し た。だが、実際にたどり着いた者はほんの一握り……。諦め、引き 返した者はまだいい。多くは山の途中にむくろを晒すはめになった。
 その、数少ない一握りに、男はいま加わることができたのだ。
 杖をつくものもどかしげに、足を引きずりながら、男はほの暗い岩 屋の入口を潜った。


  岩屋の中は、予想に反して明るく、広々とした空間となっていた。壁 は丸く綺麗に成形され、所々円柱の形に切り出してある。青く塗られ た天井は高くドームを形成し、金銀の星がきららに散りばめられてい た。
 男は息を呑み、立ち尽くした。
 静謐が支配する中、男が目にしたのは厳かで神秘的な光景だっ た。
 部屋の中央に、天井から一筋の光がおりていた。その宙の中程に 黒塗りの弓が浮かんでいる。長さは人の背丈の三分の二ほど。白い 弦がまっすぐに張られている。
 喉の奥で低く呻くと、引き寄せられるようにして歩を進める。光が男 の顔を明るませた。
 弓は男の顔の前、手を伸ばせばすぐ届く場所に浮かんでいた。お ずおずと手を伸ばし、強張った指先が弓背に触れようとした瞬間、
「触るな。人には取れん」
 毅然とした声がして、男は打たれたように動きを止めた。振り向く と、他の空間へ続くのか、通路のアーチを描くその下に小柄な人影 が立っているのが見えた。
 銀の髪を顎のあたりで切りそろえ、ほっそりとした肢体を胸の回りと 腰から下に別れた直線的な銀の衣装に包んでいる。まだ体にまろみ の顕れる前の少女だった。裾から銀のサンダルを履いた素足が覗 いている。
 男は狼狽し、誰何した。
「何者だ」
「ひとの領域に入り込んで、よく言う。 そちらから名乗るのが礼儀だ ろう」 
  りん、と涼やかな声で言い放つと、足音もたてずに近づいてくる。少 女が足を運ぶたびに、スリットから白い伸びやかな左脚が垣間見え、 銀の箔片を繋げた耳飾りがかすかに揺れた。
  少女は光の前に立つと無雑作に手を伸ばし、弓を掴んだ。染みひ とつない輝くばかりの肩と腕──そこに黒い弓をもたせ掛け、向き直 ると、男にひたと目を据えた。瞳の色は髪や衣装と同じ、鋭く清(すが) しい、銀──。
  男は威圧される思いがした。もとより少女がただ人であるはずはな かった。言い伝えにはなかったが、この岩屋の主なのだろうか。
「私は番人だ」
  男の思いを読み取ったかのように少女が言った。
「エルディシの、ガルーと言います」
  杖を投げ捨て、男はその場にひれ伏した。乾ききった唇を懇願に 震わせる。
「どうぞオドネルの弓を……眠れる神が残された魔弓を、お貸しくださ い」
「弓を。なんとするつもりだ」
「亡き者たちに誓ったのです。ザドラーンを──ライウの狼王を赦す まじと」
 面を上げ、訴える。
  黙ってそれを見下ろし、少女は白い指先を弓弦に添え、軽く弾い た。 弦が揺れ、振動が空気を震わせた。
「──!」
 その振動音が肌に突き刺さり、身のうちを震わせるのを男は感じ た。耳鳴りがして目の前が大きく揺れる。少女の姿がぶれ、左右に 別れ、跳び去った……。





  

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