オドネルの弓(3/3)


  弓鳴りが聞こえ、消え去った。
  男は我に返った。視界が戻り、目の前に少女が立っている。
「なんだ……なにを…した……」
  涙が頬の上をつたっていた。低く呻いて頭を振る。男はたったいま 目のあたりにした、追想にしては生々しすぎる自身の過去に茫然とし ていた。声が、全身が、震えている。
 「"幻"(げん) を弾いた」
 少女は短く答えた。
「人は必ずしも正直とはかぎらないからな」
「たばかるとでも?」
 拳を握り、怒気を滲ませる。
「本人は真実を語っていると思っていても事実でないこともある」
 少女はなんの感情も表すことなく銀の瞳で男を見据えた。
「事情はわかった。なにを望む。一族の再興か。復讐か。和平か。そ の身の安寧か」
「和平だ。ライウの、ザドラーンの存在は大陸に仇をなす」
「人は永遠に生きるわけではない。不死と不死身は違う。ザドラーン とやらもよく生きてあと四十年といったところだろう」
「その間に何百万という人を殺すだろう。それを座視するつもりはな い。弓を貸してくれ。頼む」
「代償は望みと等価のものになるぞ」
 少女はかすかに目を細め、探るように言う。
 男はきっぱりと首肯した。
「かまわん」
「だったら、取るがいい」
  少女は弓を差し出した。
 男は黙って黒塗りの弓を見つめた。視線を疑問と取ったのか、少 女は付け加えた。
「矢は必要ない。知恵となすも武器となすもおまえ次第だ」
「──武器だ!」
  手を伸ばし弓を取ると男は言下に言った。矢をつがえることなく、弓 弦を引いた。ぎりぎりと引き絞り、想いを乗せて一気に放つ。
「ザドラーンに死を!」
 弦が耳元を掠めた。


  男の意識は、矢のごとく空間を翔んだ。
 山々を越え、草原を越え、砂漠を越え、廃墟を越え、街を越える。
 下方に軍団の集う野が見えた。訓練された騎馬の動き。血臭と熱 気が土煙とともに立ちのぼる。その中に、旗頭に囲まれ、兵を鼓舞 し、自らの剣でもって敵を屠る男の姿があった。覇王を夢み、侵略と 殺戮で各地を蹂躪してきたひとりの男──。
(ザドラーン!)
 男の意識はまっすぐ狼王に向かった。
 突風が吹き荒れ、暗雲があたりを覆った。
 ──なんだ!?
 敵味方の別なく異変に気づいた兵たちは、しばし動きを止めた。目 に見えぬ何ものか、底知れぬ神秘の力が戦場を席巻していた。馬は 恐れいななき、人々は体の芯から凍りつくようなおののきを覚えた。
 男は意志と力そのものとなって、兵を蹴散らし、殺戮した。
  ──助けてくれ!
  ──引け、引くんだ。
  ──逃げるな。戦え!
 混乱と怒号が渦巻く。男は歓喜のままに戦場を駆け抜けた。
  男が最後に目にしたものは、自分に迫ってくる見えない何ものかを 見極めんとするように、あるいは挑もうとするかのように、カッと双眸 を見開いた狼王の顔だった。
 ──ザァァァドォォラァァァーン……!!
  狼王の体は微塵に砕け散り、主をなくした兜が転々と地面の上を 転がった────







「つまらん……」
 吐き捨てるように言って、少女は小さく鼻を鳴らした。
「狼王が死のうが、同じこと。いずれ別の野心家が同じことをしようと するだけだ。賭けてもいいぞ」
 足元を見下ろし、呟く。
 床の上にボロをまとった男がうつ伏せていた。顔を横に向け、目を 見開いたまま、こと切れている。風雪にさらされたその顔は何かを訴 えるように、また喜びを表すように、歪んでいた。
 男の望んだのは復讐だった。そしてその代償を命で支払ったの だ。
 屍の傍らに弓が倒れている。少女が白く輝く腕を延べると、それに 引かれるように、弓は自然とその手に納まった。
 軽く弦を弾くと、骸は幻のごとく薄れ、消え去った。
  覇王は死に、ライウの脅威は取り除かれ、束の間の和平が訪れ る。だが、不和の種は常に蒔かれる。ザドラーンの、ライウの重しが とれたとなると、各地で押さえつけられていたものが一気に噴き出 し、容易に騒乱へと転化することだろう。
「恒久の平和など、人の世には無理なことなのだろうな」
 長の年月の間、多くの者が岩屋を訪れ弓を手にしようと望み、その うちの幾人かが実際にここへたどり着いた。弓を手にした者はすべ て武器として、弦を弾いた。
 知恵となした者はひとりとしていなかった。
(そういう人間はここへはたどり着けないのだろうか)
 それとも。そもそもそういった知恵は弓によってもたらされるもので はないということなのか……。
 少女は弓を抱えたまま岩屋の外に出た。目の前に幾重にも連なる 稜線が拡がっていた。荒々しく、情けも容赦も入る余地のない大自 然。人の棲まうことのない、神々の領域。
 見慣れたパノラマ。変わることのない、風景。寒気も薄い空気も少 女の身を損ないはしない。気の遠くなるような、年月さえも。
「私はなんのためにここで番人などしているのだろうな」
 自嘲ぎみに少女は呟いた。自分自身に、あるいは眠れる神に、問 うように。
  番人。岩屋の、弓の──。だが、護り、見張るものは同時に縛られ る。
 なんのため──。答えなど出るはずもなかった。弓の存在理由と同 じだ。

 ──ドウシタノ。スンダンデショ。

 声が聞こえる。視線を向けると、大きな鷲が空を舞っていた。普通 の鷲ではありえない。意志を伝え、こうして神の領域を舞えるのは、 少女と同じく主につくられたからだ。
 少女は腕を差し出した。そこに鷲は舞い降りる。鋭い爪は新雪のよ うな肌をいささかも傷つけることはない。
「久しぶりだな。どこを回ってきたんだ」
 少女は鷲に話しかけた。
 世界を回り、その目ですべてを見通すのが彼の仕事だった。なぜ、 と問うても、ソウ定メラレテイルカラ、と答えるだろう。彼は見守るだけ で、考えたりはしない。
 それが、羨ましかった。自由に世界を飛び回れることを差し引いて も。
 ──西ノ外レノ島ニズットイタヨ。
「どんな様子だった」
 ──弦ヲ弾ケバ見エルデショ。
 その通りだったが、重ねて言った。
「聞きたいんだ」
 あの方は、どこにいる? という問いを飲み込むために。尋ねたと しても、シラナイ──と返ってくるのがわかっていたから。
 ──イイヨ。ダッタラ、話シテアゲル。かるーすトイウ村ニ、ありのー トイウ女ノ子ガ生マレタンダヨ。ソノ子ハネ………
 鷲は、見聞きしたことをいくつか話した。
 それを聞きながら、少女は、いまではもう面影すら定かでない眠れ る神を思った。
  初めて世界を目にしたその日、目の前にいたのはそのひとだった。 だからそのひとが世界そのものだと少女は思った。
 なんの説明をすることもなく、名を呼び、そのひとは言った。
『私は眠りにつく』
 白いしなやかな指が少女の頬をかすめ、髪を撫でた。顔をあげる と、耳飾りが、しゃらん、と小さく音を立てた。
『なぜですか』
  自然と言葉が唇にのぼっていた。
『見ていたくないからだ』
  そのひとは美しく、ひどく悲しげな顔をした。
『おまえはここを護るのだ』
 今度は、なぜ、とは言わず、黙って頷いた。世界のことなどまだ何 もわかっていなかったけれど、そのひとにこれ以上悲しげな顔をさせ たくなかったから。
『再び、お会いできますか』
 これだけは訊いておかなければ。気がつくとつき動かされるように、 問いかけていた。
  だが、答えずそのひとは黙って微笑んだだけだった。
  そして、行ってしまわれた。少女をひとりここに残して……。

  神は、なんのためにこの弓をお作りになったのだろう。なぜ自分を つくり、番人にしたのだろう。
 風が、少女の頬をかすめ、髪を乱した。
 〈希望〉……それが神のつけた少女の名前だった。
  神にとっての希望なのか、岩屋を訪れる者にとって意味するところ なのかは知らない。
(私にも、希望を持てというつもりだったのだろうか)
 だが、なにを望むというのだ? 再び相目見えることか。弓を知恵 となす者の存在をか。それとも、解放か。
 待つこと。それが少女の務めだった。岩屋を訪れる者を。創造主の 目覚めを。まだ見ぬ知恵を。
 ── モウ、イクヨ。マタシバラク来ラレナイカラ。元気デネ。
  空の色が紫がかっていた。日が傾き、山の端が薔薇色に燃えてい る。
 鷲はまた、下界におりてゆく。世界を見守るために。再び、長い孤 りの時間が訪れる…。
 ──ソンナ顔シナイデ。アンマリ、考エスギルノハヨクナイヨ。ハゲ チャウヨ。
 鷲の言葉に目を瞠り、失笑する。
 その通りかもしれない。
 ──ジャ、マタネ。
 鷲は翼を拡げ、少女の腕を飛び立った。
 唇に笑みをのぼらせ、少女は同じ言葉を鷲に返した。

 ──オヤスミナサイ。

 鷲は夕映えの中を小さな点となって、消えていった。
  ほどなく夜が訪れ、星が輝きだすだろう。
 少女は弓を抱え、岩屋へ戻った。
 神が少女のために飾った、きららに輝く金銀の星々の下で眠るた めに────


END





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