イリュージョン



 水底のような青い闇が灰白く変化する。
 夜明け前の透明な空のような、青いトーンがかすかに揺らいだ。
 少女が目を覚ましたのだ。
 一番濃い闇よりもさらに青い宝石をはめ込んだような瞳を瞬かせ、 少女はゆっくりと起き上がった。
 硬直した闇の中では身じろぎするにもかなりの労力を要する。が、 それも初めのうちだけだ。少女の身体はすぐに慣れる。
 少女は口を開いた。
 真空にも似たまったき静寂の中、少女の発した声はくぐもった音の 響きとしてさざ波のように伝わっていく。
 こだまが返るのを待つように、少女は小首を傾げて耳を澄ませた。
 何の返事もない。
 まわりを取り巻くのは青い闇だけ。何もない中に少女は特に落胆し た様子もなく一人立っていた。
 いつから、どうしてここにいるのか少女は知らない。
 人がなぜ、その時代その場所に生まれたのか理由を知らないよう に。
 少女は、とん、と片足で床を蹴った。
 もっとも床というべきものはどこにも見当たらない。ただ薄青い空間 の中に少女が足裏で寄って立つ場が存在するというだけだ。
 片足を軽く曲げたそのままの姿勢で宙へ舞い上がる。
 少女の身体が動くにつれ、まわりに波紋ができ広がった。美しいオ ーラのようにその軌跡を従えながら少女は宙を漂った。
  少女は城へ行きたいと考えた。
 その思いに呼応するように、城が青い闇の中に浮かび上がった。
 城はここでただ一つ目で見、触れることの出来るものだった。その 点では現実と呼べるものなのかもしれない。
 もっとも少女にとっての現実とは青い闇のほうなのだったが。
 城は夢幻のように青い闇を背景に建っている。建っているとはいっ てもその城壁は遙下まで続きその先は霞んだように青黒い影を構成 していた。
 一度、城壁がどこへ続いているのか辿ってみようと下降を続けた が、果てというものはなく、いつの間にか城の上空へと辿り着き、樹 木の植えられた庭園と先の尖った塔、堅固な城の威容を俯瞰してい たのだった。

 城には、魔法使いが住んでいた。
 そう名乗ったわけでも魔法を使っているのを見たこともないが、少 女は城主が魔法使いだと知っていた。
  いつものように城に入り込むと少女は大広間へ向かった。
 玉座にひとりの老人が寄り掛かっていた。胸に小さな卵を抱いてい る。
 魔法使いに近づくと声をかけた。
 ──何をしているの?
 水中のようにその声は揺らめきながら伝わる。
 魔法使いは深い皺の刻まれた面を上げると片目で少女を見つめ た。もう一方の目は閉じられたままだ。
 ──卵を温めているのだよ。
 魔法使いが答えた。
 少女が魔法使いに問いかけるのはこれが初めてではない。何十 回、いや何百回となく少女は同じ問いを繰り返し、その都度魔法使い も同じ答えを返す。
 他の挨拶も質問も不要だった。いや、思いつきもしなかったのだ。 ここには時というものがないに等しいのだから。したがって魔法使い の卵が孵る日は来ないのだ。
 いや、あと何千回となく同じ言葉を交わした頃には殻が割れ卵の孵 る日が来るのかもしれない。しかし少女はそれが何の卵で、何が生 まれてくるのかも知らなかった。
 魔法使いが卵を温めている間、首のない男が城の中の雑事をこな していた。その男はひっそりと、しかし的確に城内の整理を行った。
 少女は壺を磨いている男の後ろ姿に目を留めた。
 ──精が出るわね。
 少女は声をかけた。
 これが男に対する少女の唯一の言葉だった。いつ来ても男は何ら かの仕事を忙しそうにしていたので。
 そして男が少女の言葉に反応を示すこともなかった。
 少女はしばらくの間、男が古い彫像や調度を磨いていくのを眺めて いたが、やがて飽きると庭へ出た。
 
 緑葉の生い茂る樹木の間をそぞろ歩く。
 他の生き物も音をたてるものも存在しない。
 宙を見上げると塔の上に小さな銀色の円盤が出ていた。
 ──月だ……。
 月を見るのは何度目だったろう。月は城の一部らしいのだがいつ でも見えるわけではなかった。
 少女は地面を蹴って宙に舞い上がった。
 月に近づくと恐る恐る手を伸ばし、表面に触れてみる。ぴりっと光 が弾け刺すような感触が皮膚を走った。あわてて手を引っ込める。
 月は手を触れることが出来るのに、そのくせどこまでいっても月より 上に行くことはできないのだ。ちょうど城壁の下限がないように。
 少女はあらためて手首を立てると冷たい銀色の光を放つ表面に掌 を重ねた。
 皮膚がひりひりするが、やがて感覚がなくなり、段々と手が月の表 面に埋没していく。気がつくと手首までがすっぽりと月の中に入り込 んでいた。
 少女は静かに手を引き抜いた。手首から先が青白い光を放ってい る。 少女は目の前でその手を何度も翻した。
 気がつくと、少女はひとり青い闇に包まれていた。いつのまにか城 も月も消えている。
 寂しいとも不思議とも思わなかった。これが当たり前なのだから。
 少女は闇の中にうずくまると瞼を閉じた。





 その日少女はいつものように目覚め、城へ行きたいと思った。
  だが、どうしたわけか辿り着くことができなかった。
 こんなことは初めてだった。いくら宙を進んでも青い透明な空間が 続くだけで城の痕跡すら見つけることができなかった。
 宛もなく果てもなく青一色の空間を漂い続けた挙げ句、少女は初め て途方に暮れた。
 城も魔法使いも消えてしまったのだ。
 青い闇が無限に続くなか、両手を胸に押し当てたまま少女は立ち 尽くしていた。胸に開いた空洞に青い闇が流れ込むのを防ごうとする かのように。
 永遠にも似た間少女はそうして佇んでいたが、ふいに、なにかを感 じ取り視線を上げた。
 微かな光の波動が闇を通して伝わってくる。
  興味を引かれ、その光源に向かって静かに移動した。
 光の輻を放つ先にあったのは硬質な球だった。大きさは少女の手 に余るくらい。両手を伸ばし挟むようにして持ち上げると、ひんやりし た感触が掌に伝わってくる。
 少女はしばらくその球を弄んでいたが、顔を匂いを嗅ぐように滑ら かな曲面に近づけ、覗き込んだ。
 球の中には少女が見たこともない風景が広がっていた。山や川、 植物に動物たち、そして都市と人々。
 そのめくるめくような光景に目を瞠った。
 そこには物語と時が凝集していた。
 そうして茫然と見入るうち、少女はその中に見覚えのある城を見つ けた。あの魔法使いの城だ。さらに目を凝らすと魔法使いの姿もそ の塔の窓辺に見ることができた。
 少女は魔法使いに呼びかけた。
 しかし魔法使いは難しい顔をして窓の外を見ているだけだった。
 少女は叫びながらなんとか球を割ろうとした。魔法使いが球のなか に閉じ込められていると思ったのだ。あるいは自ら閉じこもってしまっ たのか。少女をひとりこの青い闇の中に残して。
 自分もこの中へ入ることができるのではないかと考え少女は球をこ ねくりまわしたが無駄だった。
 少女は球を投げ捨てた。
 球は青い闇を押し分けるようにして転がっていく。幾筋もの輝線が 流れるように広がり少女の身体に影を落とす。
 少女の心には怒りとも哀しみともつかない強い感情が沸き上がっ た。それは少女が初めて持った感情だった。
 揺らめく青い闇を振り払うようにかぶりを振ると、とん、と宙へ舞い 上がり、球の後を追った。
 少女は魔法使いと物語を籠めた球を胸に抱き、眠りについた。


 瞼の裏にちらちらと小さな光が飛んでいる。
  皮膚を刺すような異質な気配を感じ少女は目覚めた。
 横になったまま瞼を開けると、涼しい銀色の瞳に深い威厳と憂愁を 讃えたひとりの男が少女を見下ろしていた。
 背に白い翼を広げ、長い髪は上空に向かって流れ揺らめいてい る。
 初めて見るにもかかわらずそれが天使だとわかった。
 天使は凛とした声音で言った。
 ──それを寄越しなさい。おまえが持っていても仕方のないもの だ。
 天使は片手を差し出していた。
 その手が示すもの──少女は胸に抱いた球に目を落とした。星空 が丸く映っている。
 少女は頑に首を振った。両腕で庇うようにして球を抱きしめる。
 ──寄越しなさい。それは魔法使いの夢。魔法使いの温めていた 卵から孵った一つの、そして最後の世界。
 少女は身を強張らせ天使の顔を見返した。天使の顔は冷たく透明 で硬質な球のように美しかった。
 ──おまえはおまえの卵を孵すがいい。だがらそれは寄越しなさ い。
 天使が指先を動かすと、球は引かれるようにして少女の手を離れ、 天使の掌に収まった。
 ──あ。
 そして代わりに少女は掌に小さな卵を抱いていた。
 ──これは何?
 少女は尋ねた。
 ──おまえの卵だ。美しい夢を見せておやり。
 ──卵が孵るとどうなるの?
 ──世界が生まれるのだ。
 少女は天使の掌に載っている球を見た。
 ──それをどうするの? 消してしまうの?
 天使はほんのわずか口許に笑みを浮かべた。
 ──いや。そんなことはしない。自ら朽ち果てるまでは。これは完 璧なまでに美しい。きっと永いこと楽しませてくれるだろう。
 ──卵が孵ったら私も中に入れるの?
 ──ずっと先にはたぶん。魔法使いは夢を見るのに疲れてしまい、 最後の夢に自らも閉じ込めたのだ。だから、今度はおまえが卵を孵 すのだ。
 それではきっと気の遠くなるくらいたくさんの夢と世界と卵を孵さなく てはならないのだ。
 ──何のために?
 その問いを発する前に天使の姿はかき消え、青い闇の中に少女だ けが取り残された。
 少女はおぼつかない面持ちで掌の卵を見つめた。


  少女は卵を抱いたまま宙を漂った。
 そして眠りのなかで少女は初めて夢を見た。
 暗い闇の中、さらに真っ黒な闇が溶け合いどろどろとした混沌の中 から一本の白い腕が伸び、何かを求めるように天を仰いだ。
 それに呼応するように一筋の光が闇を切り裂いた。白い腕は混沌 の中を探り捏ね自らの姿を造形していく。そして光の中にひとりの少 女が誕生した。それは少女自身の姿だった。
 目覚めると、青い闇の中だった。

 それから、眠る都度少女は様々な夢を見た。夢の中で幾多の世界 と物語を紡ぎだした。
 ある時は人の世界を。
 またある時はまったく異質なものたちによる世界を。
 時に、少女自身が登場することもあった。


 少女は草原に立っていた。
(ここはどこだろう)
 周囲を見回すと一面の緑が広がっている。
 夢の中にいるのだとぼんやりと思う。
 風が少女の髪をやさしく撫ぜる。日が傾きはじめていた。
 それを見ている内にわけもなく胸の奥がゆうらりと締めつけられる 思いがした。寂しさと懐かしさといとおしさ。心が波うつ。
 少女は「家」へ帰ろうと思う。
(家って何だろう)
 そこには少女を名前で呼ぶ人たちが待っているのだ。その人たち はどんな人たちだろう。自分を何と呼ぶのだろう。自分は何者なのだ ろう。
 少女はそれが知りたくて駆けだした。
 髪をなびかせ、草原をつっきるように走り抜ける。
 息が切れ、足がもつれる。
 苦しい。魚が空気中へ上がったみたいだ。
 それでも少女はひたすら走りつづけた。
 丘の上に一軒の家が見えてきた。
 少女はその家を目指して走った。
 庭に銀色の毛皮に覆われた獣がいて少女を迎える。尻尾を振って いるのは少女が好きだからだ。
 獣の頭を撫でるのもそこそこに玄関に向かう。
 扉が目の前にあった。

 扉を、開けた──────────────────────





  気がつくと、少女は卵を抱いたまま、ひとり家の中にいた。
 板敷きの床。簡素な家具類。がらんとした室内には誰もいない。
  目を瞬く。
 これは夢の続きか、それとも……。
 茫然とする少女の足元に何かが押しつけられた。視線を落とすと、 銀色の獣が匂いを嗅ぐように鼻をすり寄せている。
 獣は何をしているのかと尋ねるように顔をあげた。
 硬質で透明な膜を被せた金色の瞳が真摯に少女を見据えている。
  少女は少し考え……、唇を開いた。
  ──卵を温めているのよ。
  答えを聞くと獣は興味を無くしたように床の上に腹這いになり目を 閉じた。
 少女はその傍らにしゃがみ込んだ。
 卵を抱いたまま、片手を伸ばし獣に触れる。あたたかくやわらかな 感触が心地よかった。

 ────ああ、それでは私も以前魔法使いと夢の中で会ったん だ。

 少女は卵を抱き床の上で丸くなって獣と一緒に眠った。


  眠りの中で夢を見て、目覚め、獣と過ごし、卵を温める。そういう時 (とき) が繰り返されるのだ。
  夢を紡ぎ世界を織り上げ、卵を孵す。
  何のためにかは知らない。ここがどこで何なのかも。
  いつの日か、魔法使いのように自らの生み出した球の中へ入るこ とがあるだろうか。
  その時、獣も一緒にいられるだろうか。
  それとも次は獣が夢を孵すのか。


  青の世界で少女は卵を抱き、ひとり夢を見る…………。




END



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