天使の住む都市 4


     

「お疲れさん」
  声をかけるとロッカーを開け、俺も他のみんなと同じように着替えは じめた。制服は白いスペンサージャケットとズボンの組み合わせだ。
 〈臨時雇い〉は今のところ俺を含め三人だった。仕事は皿洗いや掃 除といった雑用。いくらなんでも明らかに未成年とわかる者に接客さ せるのは問題があるし、あれは結構年季のいる仕事だ。そちらは正 式に雇われている大人の仕事だった。
 仕事は夜の六時から十二時まで。皿洗いといっても皿洗い機があ るから、そこに汚れたグラスや皿を入れて洗浄後取り出すだけだ が、結構疲れる。おまけにグラスを割るとその分が給金から天引きさ れると脅された。もっとも耐久ガラスなのでめったに割れることはない のだそうだが。
 シャツを脱いだとき、胸元のペンダントがあらわになった。ロッカー の扉の裏に駆けられた鏡に、白い華奢な胸にかかったコインが映っ ている。
 それを眺めながら、俺はこれをくれた男のことを思った。
 あれから三日がたっている。

 ──詮索好きの子供にかかわるな。

 マクシムがそういったとき、俺は本気で傷ついた。
  ペンダントを外して捨ててしまおうか。一瞬本気でそう思ったが、結 局できなかった。
  俺は自分の心を量りかねていた。あの頭から人を馬鹿にし子供扱 いするようなマクシムの態度には腹が立つ。いったいあの男は何者 なんだろう。だけど、その姿を目にした途端、そういったことはどこか へ消えてしまうのはわかっていた。
「何が『お守り、大事にしとけよ』だ」
 俺は鼻を鳴らすと、頭からすっぽりとプルオーバーを被った。
 乱暴に扉を閉めようとして、ハンガーにかけた制服が落ちた。
 舌打ちして屈み込む。制服を拾い上げ、ふと見ると、ロッカーの隅 に何かきらりと光るものが落ちている。
 手を伸ばし、取り上げて見ると、それはダイヤのピアスだった。そ れも片方だけ。
「あ、それ……」
 ミーシャが口を開く。
「君の?」
「ううん。前、そのロッカー使ってたやつのだよ。アルっていって、僕と 同じくらいにここへ入ったんだけど、半月ほど前に辞めたんだ。ほん ときれいな子だったな。君もいい線いってるけど、アルはいいとこの 坊ちゃんだったから、なんというか気品があったんだな」
 いいとこのお坊ちゃんが、こんなところで──?
 俺の疑問を読み取ったのか、ミーシャが、
「アルは厳しすぎる親父さんに反発して家出してきたんだ。あぶない よね。へたするといかがわしいところに売り飛ばされて一生日の目を みないなんてことになるもん。でも、ここへきて、よかったよ。デイトン さんも噂を聞いて気にかけてたのか、はやくに呼んで話をしてたん だ。それで説得を受けて、家へ戻ったんだ」
「へえ」
「でも、突然迎えが来たらしくて、ろくに挨拶もできなかったんだ。僕が 出掛けているあいだにいなくなっちゃったんだ。簡単なメッセージが 残ってただけで──。ま、仕方ないな。いきなり身の振り方が決まっ てここを出ていく連中も多いし。入れ代わりが激しいんだ」
「ふーん」
 それは結局、次から次へと家出少年が集まってくるということだ。
「どうしよう、これ」
「もらっとけば」
「だったら、君がもってたら。俺はアルってやつを知らないから」
「そうだね。送ってあげようかな。デイトンさんに訊けば、住所がわか るかもしれないから」
 ミーシャはピアスを受け取ると、胸のポケットにいれた。



「あー、肩こったな」
 ミーシャは伸びをして、拳で肩をとんとんと叩いた。
 その仕種が容姿とミスマッチで妙におかしかった。
「笑ったな。年よりくさいって思っただろ」
「そんなことないよ」
  夜の空気はまだざわついている。
 眠りにつくにはまだ早すぎると街全体が主張しているのだ。
 俺は、ミーシャと一緒に『クォーター・ムーン』を出て、アパートに向 かって歩いていた。
 表通りを離れるにつれ、闇が深まったかのように、暗く、うらびれた 雰囲気が色濃くなる。人影も見えず、辺りはひっそりとしている。
「もう少ししたら、俺、皿洗いは卒業してボーイの仕事に変わるんだ」
「そうなんだ」
「俺、将来自分の店を持ちたいんだ。おいしい料理とワインを出すよ うな」
「へえ。しっかり将来のこと考えてんだ」
 俺は感心した。俺なんかまだなにも考えていない。だからこそマリ ーンの口車に乗ってのこのことこんなところまで来てしまったのだ。
「俺の親父はシェフだったんだ。小さなレストランをお袋と切り盛りし てたんだ。けど俺がちっちゃいころ事故で死んじゃって、お袋だけじゃ うまくいかなくて店は手放すはめになってさ。それから、しばらくしてお 袋ももともと身体丈夫じゃなかったし、あっけなく逝っちゃったんだ」
「……」
 物陰から黒い影が走り出ると、道の真ん中でいったん立ち止まっ た。鼻から上と背中が黒く胸から下は白い、覆面とマントをしている みたいな猫だった。目を光らせこちらを見やると、再び走り去る。
「それから施設で育ったんだけどさ。なんかいろんなやつがいたな。 やたら乱暴なやつとか。結局バカしでかしてつまんない連中ともめて 命落としたんだけど。おれはそいつが嫌いだったから悲しくもなかっ たけど、そのとき先生が言ったんだ」

 ──ここにいるみんなはいろんな事情を背負っていて、自分は不 幸だと思い、何も信じられない気持ちになることもあるだろうけど、未 来は自分のものなんだよ。これから先も楽しいことや幸せだけでな く、辛いことや思うようにいかないこともあるだろうけれど、それでも未 来は自分のものなんだってことだけは忘れないでほしい……。

「それって、ヤケになったり死んだらおしまい。未来を信じて生きろっ てこと?」
 先生の深遠とも思える言葉を俺はかなり即物的に解釈した。
「うん。自分を大切にしろってことなんだろうね」
 過去は変えられなくても、未来は変えられるからね──ミーシャは ひとり言のように呟く。
「あんなに悲しそうな姿、見たことがなかったな……」
「いい先生だったんだ」
 ミーシャは頷いた。
「いつも人の心配ばかりしてた。もうおじいさんで、厳しかったけど、 結構好きだったよ」
 言葉を切り、頭の後ろで手を組むと、ミーシャは天を仰いだ。
「エド。ルピナスって、どのへん?」
「え? さあ……」
 唐突な問いに戸惑い、俺は曖昧に答えた。
「このどこかにあるんだよね」
「たぶん……。昼側かもしれないけど」
 足を止め、見上げた。でこぼことした建物の黒い影に切り取られ、 夜空が拡がっている。
「いいところだった?」
「ここに較べると田舎だよ。人口も少ないし」
 都会の夜空は光のせいで星はあまり見えない。見えたとしても、星 座もなにも、ルピナスにいたときとはまるで異なっているはずだ。
 自分がもといた場所が、遙か遠くの小さな光の点でしかない。そう 思うとなんだか不思議な気がした。足元にあるのも地面ではなく、た よりなく宇宙に浮かんでいるような錯覚を覚え、かすかに身震いをす る。
「スノードロップはどこにあるのかな」
「さあ…」
 おぼつかない表情で答え、俺はそうしてしばらく空を仰いでいた。



  

index


LunaPark文庫

2style.net